「これまでの指導者人生で大事にしていること 全国で勝つためには」大山照人(武南高校サッカー部監督)インタビュー後編

指導人生45年を振り返る

埼玉県勢最後の全国制覇となる81年度大会での日本一の他、全国選手権で準優勝1回、4強3回の歴史を持つ名門・武南高校。武南就任から45年で、名門に育て上げたこれまでの大山監督の指導人生は、まさに埼玉サッカーの歴史そのものだ。これまでの指導人生を振り返って頂いた。

全国で勝つための「個」の重要性

―2000年代前後にも連続して選手権に出場しました。

周期があったりするんですけど、とにかく2000年くらいになった頃は地元の宝が外にたくさん行くようになったんじゃないですかね。それは帝京高校しかり、あの頃からもう前橋育英高校、流経や市船とかも含めて、この関東近辺っていうのは埼玉県の選手たちが結構もてはやされていましたよね。

その頃からやっぱり募集活動も簡単にはいかなくなってきているし、同時に埼玉県内にライバルと呼ばれる私立がたくさんできて、選手が分散されるようになった。なかなかエース格を連れてきて、そのエース格を育てることができなくなってきた時代。そうするとその頃には少しずつ組織プレーを導入していかないといけなくなってくる。それで全国に行くと接戦した時にこれだっていうのがないんですよ。苦戦している時にこの一本というのがない。困った時にあいつだったらなんとかしてくれるというような、エース格の選手がなかなか募集できなくなってきていた時代ですね。

だからみんなが頑張れるんですよ。その代わりどうしようもなくなった時は厳しい。こいつだったら絶対にやってくれるとか、飛び抜けた選手はいなかったですね。2000年は本当にチームから派手さは失われてきた。グラウンダーのパスやワンツーとか、そういったものが多用されるようになったんじゃないかな。ひとりで突破しろという指示はしなくなったと思うんですよ。だから1対3の場面になったら誰かやってやれと、そこで必ず次のチャンスが作れるからっていう。それは自分で積極的にやれと。ワンツーとかね。そういうところから崩しに入っていった時代だと思いますね。

ディフェンスもカバーリングを重視する。全国に行くと相手のセンターフォワードにすごい選手が必ずいるんですよね。これはひとりで抑えきれないのはわかっている。でもこの選手に点を取られたら負けてしまう。鹿実の城(彰二)や四中工の小倉(隆史)に入れられた時も大宮で負けた。こういうエースを抑えない限りは全国選手権のトーナメントは絶対に勝ち抜けない。それをホームグラウンドでやられたのは、もう本当に悔しかった。わかっていて抑えきれなかった。だからやっぱり体格も含めて、まず空中戦で負けない選手も必要だなと。日本代表だってそうだよね。結果的に上で負けたら何にもならない。そこで粘れる選手。だから埼玉県の技術講習会なんかでは他のチームのためにいっぱいそういうことを話したけど、自分のところでは、なかなかそういう選手を確保することが厳しかったかなと思います。

ディフェンス面で、ある程度自分のゴールを守るには、やっぱり空中を制圧しないとダメなんですよ。みんなミドルシュートばかり打ってくれるのならいいけど、外からそこに放り込んでズドンとヘディングでやられたら終わりだから。だからそういう状況を自分で払いのけられる選手を置いておかないとダメなんですよね。勝つためにはもう募集の段階からそういうことを意識して募集しないと、入ってきた選手から選んだのでは、もう遅れちゃってダメなんです。育てきれないうちに大会が始まってしまう。

大人びた選手が高校生の中でいるんですけど、みんな足元もうまくて、そういう選手はみんなユース代表に選ばれてる。こいつすごいな、全然抑えられないという選手はあとで聞いたらもうとっくにユースで大活躍している。そんな選手が結構いましたね。うちはスマートな選手ばかりで、そういうタイプの選手を作って売り出すことができなかった。そういうのはやっぱり来るのを待っていちゃダメ。どんなことをしてでも連れに行かないとダメなんですね。だから清水商業が全国で上位にいる時だって(大滝雅良前監督は)平気で募集にいろいろなところへ行っていましたからね。私はそういうことができませんでしたね。

卒業した選手はみんなが友

―2006年のチームも面白いチームでした。

2006年の選手権は3回戦で盛岡商業にPKで負けたんですけど、この時は結構いいチームに育っていけると思ったんですよ。直前の練習ゲームでも青森山田なんかには6点、7点取ったり、八千代にも4点、5点取ったり。そうしたらやっぱり1回戦で選手が怪我して。アクシデントがなければ結構いい結果は出せたと思うんですけど、そこにやっぱり昔の経験が生かされなかったっていうのが悔しいというか。

2006年は大きい選手がいたり、バラエティに富んでいたので、そういうチームは本当にいろいろなことができて楽しいというか、やりがいがありましたよね。あまりうまくないけど、よくしゃべれる選手とか、後ろからしっかり周りを把握できる選手とか。やっぱりそのポジションにふさわしいと思われる選手がちゃんと配置できると高校サッカーって結構やれると思うんですよね。例えばセンターフォワードばっかりいい選手を5人くらい集めても勝てないんですよ。センターフォワードは外にいったらセンターフォワードじゃなくなってしまう。餅は餅屋のプレーヤーがいるわけで、そのあたりはやっぱりうまくバランスをとった方が絶対いいわけですよね。でも「自分はこれがないからこれをやろう!」と思っている子は伸びていきますよね。

―ない部分を補ったり、アピールポイントを探せる選手ですね。

やっぱりすべて個人の気持ち、ハートなんだけど、でも自分っていうものを理解しているということ。どんなにあがいても勝てない部分があるけども、ここは自分の力でやればなんとかなる。だからこっちを磨いて、こっちの練習よりもこっちに時間を割いていって「アピールポイントはここだ!」といってそれを認めてもらって生きていくことを教えこめばいいわけですよね。

今、法政にいっている紺野(和也/3年)という選手がいるんですけど、彼は非常におとなしい、優しい子だったんですけど、やっぱり突き放して、ディフェンスができないのはもういいよと最初の頃はそう言っていたんです。ディフェンスしなくていいから、その分お前が前で勝負してそこできっかけを作れと。そうしたらお前のことみんな認めてくれて、お前のところにパスを出すようになるからと言って。そのようにやって高校3年の時は結構キレキレになったんですよね。彼は160cmくらいですよ。勇気を持ってやれば、自分が意識したら小さい子だってなんでもない。

―2012年にはインターハイで準優勝しました。

忠実なチームでした。夏場の大会だからポイントをちゃんと抑えて、これをやられたら終わりだから、ここさえ抑えたらなんとかなるからとか、それが順調にいったんですかね。ただ決勝は残念な負け方をした。勝っていてもおかしくないゲームでしたね。

それよりもあの代は選手権に出られなかったのが、とにかく悔しくて。当然プレッシャーはあるんですけどインターハイで上位までいっているから当然それなりの力は備わっていることは理解させて、ただもっともっと自分たちの特長を出して戦わなきゃならないと。でも同時にインターハイで準優勝しているというので、うちに対して埼玉県内のライバル校がみんないい意味で意識しているというのがあって、結果的には悪い方に出ましたけど。

いいと思ったチームが必ずしも勝てるわけじゃないというのはどこのチームも一緒だと思うんです。全国優勝した次の年は2年生が半分くらい残っていたのでチャンスかなと思っていたんですよ。そうしたらその年は選手の個性が強くて、チーム内でバトルがいっぱいあった(笑)。もう「えーっ!」と驚くようなバトルが結構あって。決勝戦の日は控え室で喧嘩してた(笑)。

だからあんまり特徴があって、我が強いのも困ったものですよね。コントロールできていると思っていてもできていなかったよね。でも今度はおとなしいのはまたこれも逆に困るので、やっぱり跳ね返ってくるくらいの方がやりがいはあるし。一筋縄ではいかないけど、すべてはあとの祭りで反省することばかり。先にわかったらどんなに幸せかと思いますよね。

―監督の中でこの世代、この選手は印象に残っているというのは?

それはいないわけでもないですけども、やっぱり卒業した選手はみんな友達だと思っているからそこの固有名詞は避けた方がいいかな。彼らが選手時代は雷を落としたり、おどけたり、いろいろ本当に世間ではあまりやらないようなこともいっぱいやったりしてコミュニケーションをとったりしていたわけですけど。ただそこにはトップチームとBチームっていう本当はあってはいけない壁や線があるわけで、Bチームの子たちはもう明らかに惨めな想いをするんですよね。邪険になんかしないけど彼らにとっては無視されているようにも見えたりする。だから卒業したらみんな一緒だって。本当に高校3年間みんながいてくれたからこっちも頑張れたんだしと言って。残念ながら身体がひとつだからお前らのところいけなかったけどとかね。そういうふうにやって卒業してくれた人たちといつまでも永遠に話をしたいと勝手に思っているだけだけどね。だからよく先生のベスト11は誰ですかって言われるけど答えられないですね。

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