藤島崇之 昌平高校監督ロングインタビュー(前編)
「長く勝てる」チームづくり 最後は技術
今年は新人戦に始まり、関東大会予選、インターハイ予選、選手権予選、リーグ戦と前人未到の県内5冠を達成した昌平高校。目前に迫ったプリンスリーグ参入戦、そして日本一をかけて挑む選手権大会を前に昌平・藤島崇之監督にロングインタビューを行い、藤島監督について、サッカー理念、選手権に向けた意気込みを訊いた。(interview by 石黒登)
青森山田でキャリアを開始 昌平では0からのスタート
——まずは藤島監督のご経歴をおうかがいできればと思います。習志野高校では玉田圭司選手(名古屋グランパス)や浦和レッズにも在籍した吉野智行さんと同期だとお聞きしています。
玉田や吉野は同期ですね。僕らの代は菅野(拓真/元ヴァンフォーレ甲府etc.)もJリーガーになりました。あとは関(隆倫)は(元大宮アルディージャetc.)、FCラヴィーダのコーチをやってもらっています。
——錚々たる面々ですね。そういった中で出場機会をつかんでいったと
高校2年生の時くらいから出場の機会はいただいた中で、高2ではインターハイに出ましたね。高3は実績的な部分でいうとインターハイ3位と国体は優勝しました。選手権は決勝が市立船橋に西(紀寛/元ジュビロ磐田etc.)や松田(正俊/元FC東京etc.)、原竜太(元名古屋グランパスetc.)、羽田(憲司/元鹿島アントラーズetc.)がいて、市船が僕らの年代のインターハイ優勝校だったんですよ。僕らは3位で。(その決勝に勝って)選手権は出場しましたが、まさかの1回戦敗退ということで本当にそういった意味では悔しい想いもしました。あとは1回戦敗退だったんですけど、優秀選手に選んでいただいて高校選抜でドイツに行きましたね。
——高校卒業後は順天堂大学に進まれました
1、2年生の時はメンバーにも入れてもらいながらやっていました。ただちょっとその後に僕は怪我が多くてなかなかうまくはいかなかったですけど。そういった中で一度、指導の方にもチャレンジしてみたいという気持ちで卒業後は青森山田にお世話になったというところです。
——青森山田では何年指導されたのでしょうか?
青森山田にいたのは4年ですね。最初の1年は高校のトップチームのコーチで見ていて、その後もほとんど高校はAチームの方だけを見ながら、中学校の監督もやっていました。青森山田中では3年間です。強化を始めたのが僕が入った2年目でした。青森山田中学校のサッカーをしっかり強化しようという話で僕は監督の立場でやらせてもらって、そこからまた生徒を募集しながら動いていたという感じです。
——青森山田中では柴崎岳選手(スペイン1部・ヘタフェ)も指導されました
実際に僕が青森山田に入った3年目が柴崎岳の代でした。その前の年代も選手権で準優勝した代で、青森山田中学校のメンバーも結構いましたね。
——やはり柴崎選手は中学時からうまかったのでしょうか?
もう別格ですね。小学校時代から別格だったと思います。良い意味で力を抜けるというか。小学校の時は多分100パーセントでやらなくてもできちゃうような所があったと思います。その代は櫛引(政敏)とかもいましたし、そこから上の代も2、3人は代表候補とか中学校時代に入っていました。岳の年代も2、3人は代表に入ったりとかはありましたね。
——そんな中で2007年に昌平高校に赴任されました
ある程度いろいろなチャレンジがしたいというところと、0からチーム作りをしてみたいという思いがありました。そんなに迷いはなかったですね。逆に言えば(青森山田は)高校もそうですけど、代表クラスが多くいましたし、そこである程度の指導をしながらやっていた中でこっちが逆に0というか、0といったら失礼ですけど、やっぱりサッカーのレベルはもちろん格段に低くて、かつ、中学校時代サッカーをやっていない子とかもいたので、これは面白いだろうという感覚でやりましたね。だから最初の年なんかは逆に面白かったですね。もう多分普通じゃありえない、レベルの差の指導なので(笑)。
環境を用意するからというのもなかったですし、別にそこを求めてはいなかったですね。逆に言えばちょっと自分が環境を変えたいというか。自分の指導者としての環境も変えていかなければいけないと思っていました。あとは最終的に新しいチャレンジというか、チームの基盤づくりからやりたいと思っていました。やっぱり青森山田は黒田(剛)先生もいますし、その前からやられている方もいて、しっかりとした基盤として強化してきたベースを持ちながら、またさらにそこからプラスαで作っていける楽しさもありました。しかしそのベースがないところで、どうやって1から何ができるかというところにチャレンジしたかったというのはありますね。そういった意味では最初は、面白いメンバーでしたね。
「長く勝てる」チームづくり 最後は技術
——赴任された最初の年からどのように指導してきたのでしょうか?
今でこそ194人いますが、当時は20人くらいだったと思います。本当に人数的な部分もいまとはまったく違いますし、プレーレベルも違いますし、正直なところやっぱりサッカーに向く姿勢も違うというところはありました。その中でもあまりスタンスを変えずにやってきたというのが、逆にやり通した感はある。彼らをどう指導するかといった時に、もちろんそのベクトルを、僕は最初から日本一になるという話をしているので、そこの温度感というか空気感は変えずに一貫してやりたいと思っていました。
あとは僕自身が常に思っていて、いまでも思っているのが、長く勝てるチームを作りたいということ。チームがその数年、1年、2年だけ強くて、それで終わってしまうようなチームづくりだけはしたくない。もちろん勝負事なので勝った負けたはあるにせよ、ある程度のベースというところの確立は重要にしてチームのマネジメントをしていきたいというベースはありましたね。
あとはやっぱり最初入ってきた子供たちは技術的には相当低かったので、じゃあこの子たちがどうやったらサッカーが楽しいかといったらやっぱり技術つけるしかない。例えば大人になった時に、40歳、50歳でも、サッカーはもちろんフットサルなど、いまはいろいろな場や機会があるじゃないですか。そういった中でもやってきたことが生かせるというか。体力が落ちたとしても技術は落ちないですよね。どれだけ腹が出ていても技術が高かったらヒーローになれるというか(笑)。将来サッカーをやっていてよかったと思うのはどっちかということも見据えてやっています。長く勝てるチームと将来的に自分自身が年を取っても、良い状況というか、気持ちよくなれる、そういう状況を作るためには個のスキルアップというところはすごくベースかなと常に思っていますね。
——技術を重視する昌平のサッカーはそういうところから始まったんですね
そこのベースはいまも大きくは変わってないんです。長く勝てるチームを作りたい、最終的には技術だっていうところは。技術だけではないとは思いますけど、僕は常に最後の結果のところは技術が絶対に出ると話しています。もちろん気持ちという人もいますが、僕からしたら気持ちがなかったら別にそこの土俵にはいないだろうと。だから最後は技術だと。最終的に慌てないで判断できる判断力もそうだし、そこに至る決断をするためには自信を持たなければいけない。じゃあ自信を持つために何をするかといったら技術だと。そこはちょっとフォーカスして、技術だけではないですけど、前提としてあるものを作り出しながらやっています。
あとは去年と今年の違いという部分になると、最初の入り方は絶対に去年の方がいいだろうと。今年はどうかなと思っていたのが、やっぱり去年よりも今年の方がよくなっているというのは、進化・進歩できているのは自信なんでしょうね。
そこの指標というのは僕らがベクトルをちゃんと揃えながらやらなければいけないと思っていますし、それを明確に伝えないといけないと思っています。それが迷いなく、かつ、その中でしっかりとした判断ができるようにするために、基本的な毎日のトレーニングレベルを高めようというところは常に話しています。
——それは土のグラウンドの時代から変わらないと
変わっていないですね。土だからというわけでもないですし。例えば足先の技術、足元の技術だけが技術ではない。テクニカルという言い方をするとやっぱり足元の技術に聞こえるかもしれないですけど、ボールを奪うのも技術だと思いますし、そういうところに長けていく状況は作りたいですよね。
昨年は総体3位も選手権では対策を打開できず
——そういった中で手応えを感じ始めたのは?
やっぱりベスト8からベスト4にいくまでが結構長かったですね。でも平成25年度の選手権予選で初めて4強に入って、そのタイミングで次の新人戦で優勝できたので。その年(平成26年度)に選手権に出たんですよね。そこからベスト4以下は落としていないので。もちろん上を求めれば優勝というところはありますけど、長く勝っていけるチームというところは、目標的にしていた部分に関して言えば地盤は作れているというか、作ってきたところがある意味結果としてもで始めたかなと思っていますね。
その後、27年度はプリンスも勝ち切れず、全部ベスト4で終わってしまいましたが、逆に言えばその次の代が針谷(岳晃/磐田)とか松本(泰志/サンフレッチェ広島)の代ですけど、針谷、松本年代は2年からほぼほぼ試合機会があった状況だったので、県内というところの部分でフォーカスすると経験値はあったチームかなと思いますね。
——その代はインハイ3位と大きく飛躍しました
もともと悪くはない年代でした。ただ針谷にしてもそうですけど、うちのチームで良いパフォーマンスは出せますけど、他のチームでとなった時に針谷みたいなタイプを使うかなと。僕は1年から彼を使っていましたけど、フィジカル的には相当低かったですし。パスのセンスとか、やっぱり配給力というのはあった選手でした。松本泰志ももちろんプロになったというところの部分だけ切り取ると1年からとかという部分になりますけど、他のチームでどうだったかというのはもちろんわからない部分で、彼らはうちがやっていることにフィットした感はあるかもしれないですね。特に針谷はそうですよね。いまでも代表に呼ばれてやっていますし、プロにもいけたというのはよかったことかなと思います。
——針谷くんには1年のころから光るものを感じていて?
そうですね。本当によかったですよ。うちのコンセプトがやっぱりボールを失わないというのをベースにしながらやっているので、そこをフォーカスした時にはチームとしての戦術的な部分、戦略的な部分を含めて発揮できる選手が針谷でした。
——松本くんに関しては?
彼はやっぱり3年じゃないですか。もともとは真ん中のポジションですけど、身長があって、技術もそれなりに高くて、あとはシュートも持っていたので、ちょっとオープンで左側にいた方がということで左サイドに置いて。あの時は塩野(碧斗)が左サイドバックをやっていたので、塩野のクロスオーバーの動きを、常にカットインで入っていくと、その動きがあるからカットインという状況で結構点を取ったりしたのでそういった部分の完成度が高くなってきたかもしれないです。インターハイとかもそれで点が生まれたシーンがありますし、そのあともすぐ広島の練習に行きましたけど、そこでもトレーニングの中でかなり点を取ったらしいですね。そういう中で評価していただいたというところはありますね。
いまは全然プレースタイルは変わりましたって言ってましたけど。それこそファイターになったらしいです。でも多分ボランチに落ち着くんだろうなとは思っていたので。キックも持っているし、両足蹴れるし。サイドでも点を取れる状況を作っていたし、仕掛けとかもやっていたので、ボランチの前に出る感覚とかはあるかなと思いながらやっていましたね。
——そんな中で去年は選手権、参入戦と悔しい思いを味わいました
現実的に結構消されるというか。(周りから注目、対策される中で)土俵が上がったというところでいくと、うちの戦術を消すための部分で自分たちの良さを消して、うちの良さを消すというチームが正直多くなってきました。
選手権予選ベスト4で正智深谷に負けた時もほぼシュートは打たれていないんですけど、うちもシュートを打っていないんですよ。プリンスの時もそうですよね。ジェフもボールを回すかなと思ったらボールを持っているのは完全にうちでした。でもやっぱりロングフィードとパワフルな展開の中で打開が仕切れなかった弱さというのがありました。
あとは佐相(壱明)とかも出ていましたけど、彼がしっかり決めて入ればと自分でも思っていると思いますけど、ただしっかりとチャンスメイクもできていましたし、逆に言えば選手権後から参入戦にかけて「あれ、佐相伸びてきたな」という感じもあったので。そこからやっぱり負けた悔しさから学ぶところもある意味今年のチームの始まりだったかなと思います。12月25日に負けて26日からはもう試合に出ていたメンバーも含めて遠征に出ているので。そういう意味ではそこからもうチームづくりを始めて、それ以降今年はもうほとんど試合も負けていない。心配してはいましたけど勝手によくなるなと、言い方は変ですけど悪い意味じゃなく、選手は伸びるんだなというのは実感しましたね。
<3冠王者として挑むもインハイでは悔しい経験から日本一を目指しての戦いへの意気込みに続く>