【プロ入りしたあの選手のJrユース時代は?】第2回 原田虹輝(クラブ与野出身)インハイで見せた60mドリブルこそ「THE虹輝」
プロ入りを果たした選手たちのジュニアユース年代について当時を知る指導者の方々にお話いただく短期連載。第2回はクラブ与野出身で、昌平高では埼玉5冠やインターハイ3位に大きく貢献、今季川崎フロンターレで2年目を迎えた原田虹輝をフィーチャー。クラブ2人目のJリーガーとなったプレーメーカーについて中森翔太監督、中森耕平コーチに語ってもらった。(※このインタビューは昨年行われたものを再構成したものです)
転機となったボランチへのコンバート
―原田くんの最初の印象は?
中森翔太監督:小さくて、ぽっちゃりしていて。人見知りなのであまりコーチたちに積極的にコミュニケーションを取りに来るような子ではなかったですね。最初はスピードもそんなにあるわけでもなかった。ドリブルはできたのでサイドハーフやウイングのポジションで使っていたんですけど、1年の頃は公式戦でも絶対的なスタメンというわけではなかったです。
中森耕平コーチ:うまかったけど、別に特別な選手ではなかったよね。止めるとか蹴るとかっていうのはきちっとできていましたけど、ただそれより足が速い子とか、身体が大きい子というのがうちにもいたので、1年の時はそいつらの方がどっちかというと目立っていましたね。
―そういった中で彼の育成についてはどういう考えを持ってしたのでしょうか。
監督:素走りよりボールを持った時の方が速いんじゃないの?というのはずっとありました。小学校最後の3月くらいにこの地域で卒団大会というのをやっているんですけど、そこで見た時にひとりで30m、40mくらいドリブルでするするすると抜けていった。本当にあのインターハイの大津戦みたいなプレーを見せていて、ドリブルの速さというのは当初からありました。
うちは月曜日にフィジカルトレーニングを専門にやっていて、体幹をメインにやることが多いんですけど、3年になると自ずとスピードは上がってくる。なので1、2年生の時に多少遅いのは僕ら的には何も心配はしていなかったです。基本的な技術もありましたし、ある程度運ぶこともできて、それに加えてスピードは間違いなくついてくるだろうというところで、とりあえず最初は彼の得意なドリブルを自由にやらせていればというのは正直ありましたね。
そういった中で自分自身、本当に衝撃的だったので忘れないんですけど、中学2年の12月に千葉の方に練習試合に行った時に、そのあたりでボランチにポジションを変えたんですけど、その時のプレーがちょっととてつもなかった。多分本人も覚えていないと思うんですけど、ちょっとボランチのポジションに手応えをつかんだんじゃないかなという試合があって。もう本当に正直言っていまでもそのままかなというくらいのプレーをしていたんです。
―とてつもなかったというのは具体的にはどのあたりが?
監督:まずボールを一切失わなかった。本当にインターハイで見せたようなプレーをもうやっていて、ドリブルで行こうとして相手が2、3人取りに来たらクルッとターンして逆サイドにサイドチェンジしたりだとか、本当に全部彼経由でゲームが進んだので、その時は僕もびっくりしました。そこまでのポテンシャルを持っていると思っていなかったですし、それまで僕らの彼に対するイメージの中にパスっていうものはあまりなかった。あのゲームはちょっと自分的にはすごい印象に残っていますし、彼にとってもきっかけになったかなとは思いますね。
また彼の良いところでもあると思うんですけど、満足したりとか、調子に乗ったりとか、そういうのがない。そこは多分普通にやったらできちゃったっていうところだと思います。天才っていったらあれですけど、教えてつく能力じゃないものを持っていたのかなと思いますね。
コーチ:お父さんが上手だった方なので、そのサッカーセンス的なものは多少やっぱり持った中で来てくれていたと思います。(父・智宏さんは大宮東高で1990年度の選手権に出場し、全国ベスト8。卒業後はFC東京の前身である東京ガスでプレーした)
監督:ただその代は矢板中央に行った伊藤(恵亮)とか、桐光学園の松永(陽平)とか、浦和南の田代(幹人)とか、埼玉栄の西見(斗輝)とか、ひとつ上の学年に上がってプレーしていた前線の子たちがすごく能力が高くて、どうしても僕らもそっちに期待していたところもあって。ただ最近よく当時のビデオを見返すんですけど、とんでもないことをしていました(苦笑)。
コーチ:その時はまだ俺らの目があいつのプレーについていってなかった。いざフロンターレに決まって当時のビデオを見返すと、やっぱりうまかったんだなというのは感じますね。
「お前は大島だけ見ていろ」。大島2世の原点
コーチ:でもJ1連覇したチームに、というのはちょっと想像つかなかったですね。
監督:もともと僕らは筑波大のゲームとかも見に行くくらい風間(八宏)さんの指導が好きで、フロンターレに就任してすぐからずっと練習も見に行っていましたし、夏休みとかにも子供たちだけで練習を見に行ってこいっていうくらいだったんです。
ちょうど大島(僚太)くんが出てくるようになって、(原田たちの代が中3の時に)僕の家に虹輝とあと桐光に行った松永を泊まらせて、ちょうどその日がレッズとフロンターレが埼スタでゲームだったのでうちでテレビで見せて虹輝には「お前は大島だけ見ていろ」と言っていました。本当に彼の場合はもう大島くんみたいになるしかないと思っていたので。
―もう彼の生きる道はそこだと。
監督:コントロールの仕方とかも似ている部分がありましたし、ドリブルっていう部分はちょっと違うかもしれないですけど、なるならこういう選手だろうなと思って見せていました。なのでそういう風(大島2世)に比較していただいて、本当にびっくりですね。
コーチ:そのくらいJリーグでも一番観に行っていたチームだったので、そこにまさか自分たちの教えた子が入るとは(笑)。びっくりしすぎちゃって。嘘だろって(笑)。
軸のブレないドリブルを作ったクラブ与野式フィジカルトレーニング
―フロンターレはプレー中でも軸が乱れない部分を評価していました。
コーチ:それはうちのフィジカルトレーニングの部分も関わってくるかな。やっぱりうちは中3になった時にすごく変わるのはもういろいろなチームからも言われるくらいで、選手たちも本当に身体つきも太くなりますし、バランスが崩れないよねというのはよく言われます。
監督:フィジカルトレーニングについては、1年生の時は週1回必ずやっていて、2年生は月に4週あったら3回、あとの1週を3年がやるという感じでやっています。でもあいつらの時は2年くらいまで週2とかでやっていたかもしれないですね。
コーチ:絶対に週1はやっていましたね。ただそのトレーニングを毎回真面目に取り組むかというとっていう(笑)。でもそこがすごく生きたっていうのは本人も言っていました。
―具体的にはどういったトレーニングを?
監督:あくまでも筋トレではなく、この年代では柔軟性がすごく大事なので、それを高めるための動きながらのストレッチとか、ステップワークであったり、コーディネーションのようなトレーニングが多いですね。重りを使ってではなくて、ほぼ全部自重でやるようなトレーニング。もううちはそこが生命線であるというくらいすごく大事にしているトレーニングです。
基本的に筋肥大のところに関しては高校年代でという感じなんですけど、身体が正しく使えていないと正しいところに筋肉がつかない。高校サッカーって結構背中が丸まっているような選手が多いですが、身体を正しく使えているのでそういうのはうちの子たちにはないですね。
コーチ:それに加えて半年に1回測定をやると毎回必ず数値はかなり良くなっている。
監督:虹輝も測定の順位は上の方でした。30m走とか10mの距離を往復したりというのが本当にめちゃくちゃ速かった。それはトレーニングしてついてきた部分でもあると思います。
―ボールスキルについてはどういうアプローチだったんでしょうか?
監督:僕らが風間さんのサッカーをよく見ていたのもあって、止めて蹴るという部分に関しては練習の中ですごく取り入れていました。わがままな学年だったので、ボールを離せというトレーニングばかりしてしまうと、本当にみんなの動きが止まるような学年だった(笑)。そういう中でも止めて蹴るっていうところに関してはすごく時間をかけてやった記憶があります。
ベガルタ仙台のヘッドコーチをされている小林慶行さん(昨年末で退任)も現役を引退されてからベガルタに入るまでの間、この学年には1年半ほど関わっていただいていて、慶行さんも基本練習に関してすごくこだわる方なので、そこはもう本当に嫌というほどやったと思います。(小林氏はクラブ与野の母体となる与野西北小SSSの出身)
コーチ:練習をやってもらったり、試合のベンチに入ってもらったりだとか。あの学年は一番慶行さんに長く時間を一緒に過ごしてもらった学年でもあるんです。その中で原田は「プロになるかもしれないんじゃない?」っていうふうに言われていた中のひとりでもあった。ただなったらなったで本当になるとは思ってなかったと慶行さんも言っていましたね(笑)。
―進路指導については? 駒大高と迷っていたみたいな話は聞きましたが。
監督:僕が駒大高校出身なんですが、最終的にはお前のスタイルに合っているところがいいんじゃないの?という話はしました。自分的には間違いなく昌平だと思っていましたね。
コーチ:進路についてはいくつか声がかかった中で一番熱心だったのが昌平だった。藤島(崇之)先生が7時から9時まで2時間練習を見ていかれて、その後電気が消えて真っ暗になってからも話をしました。そこまでしてくれるところはあまりないので印象に残っています。
監督:昌平の練習参加の時もやばかったです。藤島先生も多分覚えてらっしゃると思うんですけど、A2のトレーニングに混ぜてもらったのかな。塩野(碧斗)くんとか、あと山下(勇希/東洋大2年)くんとかもいて、紅白戦に入れたもらった時のパフォーマンスがほぼノーミスだったんです。あれはちょっと忘れられないな。
そういった中でやっぱり彼にあったサッカーをしているところに行ったのが始まりだったというか、運命だったのかなという感じはありますね。昌平じゃなかったら出てない可能性も十分あると思います。それこそ中2の夏に1回トレセンに出したんですけど、落ちて帰ってくるというくらいの選手でしたし、県内でもとてつもないという選手ではなかった。昌平に行ったからというのもあると思いますね。
インハイで見せた60mドリブルこそ「THE虹輝」
―昌平での成長はどう見られていましたか。
監督:高校1年生の新人戦で2試合連続くらいゴールして、決勝も途中から出てアシストして昌平が優勝したんですけど、もうその辺りからプロになるならこいつかなと思い始めて、その後の関東大会予選とかもなるべく決勝戦とかになった時には見に行くようにしていました。
本当に教え子とかそういうのを抜きにして、やっぱり彼のところから攻撃が始まっていたなと思います。何気ない縦パスなんですけど、すごくやっぱり周りが関わりやすいような縦パスを入れたりしていましたね。
―2年生の時はここぞでのドリブルという武器もあった中で、どちらかというとバランスを取ってプレーしているというような印象でした。
監督:僕ら的には2年生の時に見ていて、もっと行けよと思っていました。正直、もっと行けるんじゃないって。自分の学年じゃないのもあって、バランスを取って安全に、安全にというプレーをしていたと思うんですけど、もっと行けるだろっていうのはありました。
コーチ:あいつは本当に大津戦のあのドリブルだよね。インターハイで見せたプレーが俺らの中でいう「THE虹輝」です。僕らとしてはもうあのイメージしかない。あれがやっぱり一番良い時の虹輝。うちでもああいうプレーは何回も見ましたけど、それそれっていう。
虹輝といえば中3のリーグ戦のFC KASUKABE戦とHAN FC戦のドリブルですね。KASUKABE戦は60mくらいひとりでぶちぬいていって、HAN戦の時はスカウトがすごかった中でドリブルで2人、3人くらい引き連れていってミドルで決めた。この2つはやばかったですね。
監督:高校2年生の時の彼を見ていた人たちは「どうした?」っていう感じだったと思いますし、「化けた」っていろいろなメディアでも載せていただいていたと思うんですけど、インターハイを見ても別に僕らはそういう片鱗がやっと出てきたかという感じでしたね。
インターハイの前にも伊藤と松永と虹輝と、3人を連れて食事に行って「インターハイは就活だね」と言っていていたんです。表情を見たらスイッチは入っていたので何かやるかなと思ったんですけど、あそこまでの活躍をするとは思わなかったですね。
「中学時代から大人のサッカーをしていた」
―そのほかに印象的なエピソードはありますか。
監督:紅白戦でも1人足りないと僕は絶対に原田の方のチームに入ってやっていたんですけど、本当に中学生の時から大人のサッカーができたので、一番やりやすかった。出して欲しいタイミングで出して欲しいところに出せましたし、逆に自分が出したいタイミングで出したいところに来てくれた。その感覚を持っているのは僕がやってきた中では虹輝しかいないです。
Jクラブ相手でもボールは取られなかったですし、フィジカルのところで潰されることはよくありましたけど、いま考えるとすごく効果的にプレーしていたと思う。だから多分、彼の中でJクラブにやられたというのはないんじゃないですか。Jクラブがとか関係ないんですよ、あいつは。どこが相手でも自分にプレッシャーに来る相手を見てプレーするだけ。自分とその選手を冷静に比べて、こっちに行った方が嫌がるなとか、行くフリをしてこっちに動いた方が嫌がる選手だなとか、俺より遅いな、速いなとか、その辺を考えてプレーする子。相手を見極めるスピードは早かった。大津戦も言ってましたよね。「ずっと狙ってた」って。そういう子です。
人前で話したりは苦手でしたけど、サッカーに関しては緊張とかはないと思う。普段は結構大人しいような感じですけど、やっぱりピッチに入った時の存在感的なものはありましたね。
―最後に彼に向けてエールをお願いします。
監督:やっぱり自分の夢だったものになったからには上を目指してやってほしいですし、行けるところまで行ってほしい。フロンターレさんで育てていただけると思いますし、ただそれに甘えるんじゃなく自立するところは自立して、どうせだったら代表まで行ってほしいですね。
石黒登(取材・文)